新説・日本書紀⑲ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)9月29日 土曜日
途中で御船が進めない。熊鰐は恐れかしこまり、「魚池・鳥池」を作り、魚鳥を集めた。皇后は、魚鳥の遊びを見て怒りの心が解けたとある。若松区払川の田園の中に「魚鳥池の碑」が立っている。 一方、仲哀紀の記事では、岡水門に至る途中で船が進まなくなった。熊鰐に尋ねると、「私の罪ではありません。岡浦の口に、大倉主と菟夫羅媛の二神が居て、彼らの意志です」と答えた。そこで、「天皇(神功)は船頭の倭国の菟田の人伊賀彦を祝として祭らせた」とある。 祝は神官を意味するが、原義は「屠る」と同じく、人を斬り殺す意の「刃振り」と思われる。古事記に「軍士を斬りはふりき」の用例がある。つまり、神功は「岡湊神社(芦屋町船頭町)」周辺にいた嶋戸物部といわれる大倉主に抵抗され、これを誅殺したものと思われる。大倉主と菟夫羅媛は岡湊神社と高倉神社(岡垣町高倉)に祭られ、高倉神社には伊賀彦も祭られている。 すでに、熊鰐と五十迹手が帰順していたので、神功は古遠賀湾を南下し、「儺県に至り、橿日宮に上陸」した。儺県は魏志倭人伝中の「奴国(飯塚市曩祖八幡宮周辺)」と思われ、神功の時代に儺県と読みが変わったようだ。橿日宮は当時の遠賀湾の最奥部、現在の飯塚市柏の森に鎮座する負立八幡宮と思われる。この宮には栢の木が一本しかなく、他は橿の木ばかりである。負立八幡宮が「元の橿日宮」との仮定に立つと、神功紀の最初の熊襲国征伐が分かりやすくなる。 橿日宮から陸軍を率いて冷水峠を越え、朝倉の各地に陣を敷いた神功は、「荷持田村(朝倉市秋月野鳥)の羽白熊鷲を撃とうとする」。書紀によれば、羽白熊鷲は強健で身に翼が有り、高く飛翔できた。皇命に従わず、人民を略奪した。皇后が熊鷲を撃とうとして橿日宮から松峡宮(筑前町栗田の松峡八幡宮)に遷った。時につむじ風が起こり、御笠を吹き落された。そこを御笠という。層層岐野(筑前町夜須)に至って全軍を挙げ、羽白熊鷲を撃ち滅ぼした。家来に語っていうには、「熊鷲を討ち取った。我が心すなわち安し」と。だから、そこを名付けて安という。 羽白熊鷲の根拠地は朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭の平塚川添遺跡一帯と思われる。このクニは神功に滅ぼされたようだ。熊鷲は、朝倉の野山を縦横無尽に駆け抜けた神功によって、ついに朝倉市荷原の美奈宜神社に追い詰められ討たれた。羽白熊鷲塚が「あまぎ水の文化村せせらぎ館」の下にあったそうだ。 この戦の直前に、豊国の仲哀が熊鷲側の矢に当って死ぬ。小郡市大保に鎮座する御勢大霊石神社の地だ。福岡県神社誌によれば、ここに陣を置いた仲哀は「前戦を巡り、黄昏時に御帰還の途中、敵の流矢に当たり、看病空しく崩御した」とある。 神功は仲哀の棺を負わせ橿日宮に帰り、棺を立てて軍議を開いたと香椎宮の「棺掛椎」伝承に残る。負立八幡こそ橿日宮と考える根拠である。 次回は10月13日に掲載予定です
㊤橿日宮と推測される飯塚市柏の森の負立八幡神社